増え続ける記録容量と

秋葉でやっすい中古のハードディスクを買ってきてサーバーに増設した。容量を増やすのが目的じゃなくて、ただ増設の作業をやってみたかったというのが理由。なのでIDE接続の30GB/1500円のものを選んだ。トラブっても痛くない値段。
チープ革命ムーアの法則、なんたらと言われてますが かつて「大容量ハードディスク!」と騒がれていたようなものも今では中古屋でまるでゴミのように山積みになってるのがすごいなぁと今日あらためて実感。自分がサーバーとして使っているのと同じくらいのスペックのマシンは一万円に満たない価格で売られている。(それでも小さな個人サイトを開くには十分な性能だ)

最近だと150,300,500GBと大大大容量ハードディスクでもすぐに手に入る値段で売られている。とはいえ実際に私たちが保存のために使う領域はそれほどの大容量を必要としてない。「そんなに容量あっても何に使うんだよ?」っていう話はよくあるけど、個人レベルでの利用であればほんとにそうだと思う。自分はわりとたくさんのCDを持っているんけど、それで7000曲ぐらいリッピングしても結局iPod一個分にしかならなくて途方に暮れた覚えがある。膨大な時間をかけて探して買ったCD群だったのに、あの小さなiPodに収まってしまうのが何か空しかった。

このまま記録媒体の高容量化が今までのペースで順当に進めば「記録する」という概念自体が壊れてしまうのではないかと思う。どういうことかというと、大切なものだから何かに保存して記録するものだったのが、超高容量化によって必要のないものでも何でもかんでも記録しておけるようになるんじゃないかと。今までは容量の限界が見えていたから「記録するかどうか」と考えていたのが、使い切るのに十分な時間を要する記憶容量を持てば、「記録するかどうか」の選択肢は事実上消えてしまうだろうと。(150GBのハードディスクを買ってからはiTunesには好き嫌い関係なく曲を放り込むようになってしまった)

こういう意味で、「そんな容量を何に使うんだよ」という考え方は現在の自分の「記録する」という概念の狭さを表しているように思った。それは記録するべきものをあまりに狭く捉えすぎている気がする。

容量を無駄遣いするものとして切り捨てられていたデーターも、将来の高容量化によってデフォルトで全て保存しておくように意識が向くだろう。今のPCは何かの保存をする際に確認ダイアログがでるのが一般的だけど、データーの容量を心配しなくていいのなら、全てのデーターを記録する事を前提に動作するようなコンピューターを作ってもいいよね。単純な例だけど、常にビデオ録画しているとか。「常に録画する」という選択肢がデフォルト設定になってるような。ポータブルメディア(携帯等)で一日中常にGPSで位置取得しておいて自分の行動の軌跡を全て保存しておくとかさ。…そのうち自分の人生の行動を全てすっぽりと包み込んで記憶してしまうくらいの媒体ができるんじゃないかな。あまりに記録するものが膨大で煩雑過ぎて、今までとは逆に、記録を消去する事に追われるPCライフになるかもしれない。(昨今のWinny騒動はその一端のようにも思えるなぁ)

そういった保留付きの「素敵」な未来はさほど遠くないように思う。あまりに楽観的過ぎるけど、こういった話は悲観的にとらえても話が広がらないからね。「なんでもかんでも保存したら困る!」っていう考えかたは、実現してからにしよう。

こんな楽観的進歩主義な考え方は10,20,30年も前からあっただろう。その時代の事情からすれば今日のGoogleのような巨大な記憶装置は まさに「楽観的」な「未来」だ。とすれば今のGoogleサイズの記憶装置が個人レベルで活用できるかもしれない と考えてもさほどバチはあたらんだろうなって。だからまだまだ楽観的でいいんですよ。もしかしたらこの先の未来には各家庭に「Google」という名前の新しいPCの形態があるかもしれないし。誰もその可能性は否定できない。



…こんな話をしながらも増設したハードディスクはまだ1%しか使っていない。