メモ

http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/001970.html

以下上記URLより引用


サピア=ウォーフ仮説、通俗的には「言語が世界についての認識や思考を規定する」

ピタゴラスはルート2という無理数の存在を認めることができず、そのことを口外した弟子を殺してしまったほどのパラダイム転換だったという史実は知っておいて損はない。


a prioriラテン語で「経験によらない、生得的な」の意)


目に見えるモノやあるがままのモノは、感覚器官がそれとして知覚できるため、発見は容易である。しかしプロセスというのは、末端の感覚器官では知覚できない想念であり、何度やっても同じ結果が得られるという再現性によってのみ発見されるパターンであり、見える人にしか見えない。


なにしろ、先進国家の一員として西欧文明を謳歌しているつもりの私たちにしたところで、8世紀頃にインドからアラビアに伝わるまで「ゼロ」を発明できなかったのだ。見えないものは存在しないのだから、名前がつけられない。


(ついでに言えば、このようにして変化率の変化率の変化率。。。と求めていけば、どんなに複雑そうに見える現象であってもいつかは変わらないもの、万物の隠れた法則が現れてくると考えた。微積分の始まりである)


これまで見えなかったものに名前を含む語彙一式が与えられ、より多くの人がそれについて理解者として語り始めると、それは実在となる。さらにそれが当たり前のものとみなされるほど広く実在性を帯びてくると、文明のステップがひとつ上がる。


特定コミュニティにおける対人関係では、実際に交わされるコトバの多様性は低下し、一方でパラ言語的なシグナルあるいはコンテキストなど外情報が果たす役割の比率が高まる。密なコミュニティにおける対話は文字どおり圧縮率が高く、自動的である。だからこそ逆に、仲間内の空気が読めない人はいつもシニカルな笑いにさらされる。排他的風習、派閥感情、少数民族の差別などといったものはみな、外情報がわからない人たちに対する嘲笑の要素を何らか含んでいる。


米国の哲学者デイヴィドソンは、まず理解し合いたい二人がいて、そこに言語があると考えた。「ある言語の形式を義務づけられているというのは不条理である。もし理解されたいのなら、自分が発したコトバを聞き手がさしあたってどう受け取るかということにだけ配慮すればよい」というのだ。


連続的で多様な世界から何か一群のものごとを切り取って、それらをひとつのカテゴリーであるとして名前をつけるとき(これを「分節化(articulate)」という)、そこには私たちの興味の粗さの度合いが現れてくる。


その「切り取り」とは恣意的・文化的な行為であって、どう切り取るかはファッションの問題であり、時代とともに移ろい